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私のHPに2つのブログを乗せていますので参考にしていただければ幸いです。
1.『50年前の今日』 2.『病床日記』 とくに.『50年前の今日』は、50年前の本日を当時の日記にもとづいてリアルタイム(日次)で追って行きますので、あした受験する生徒さんが、今日のうちに、これから臨むであろう緊張を客観的に予行演習できるのではないかと愚考する次第です。 『病床日記』には思いつくままに有力同窓生のリストを載せていますので、100年史の材料収集に役立てばと思います。 【2010/03/01(Mon) 17:27:55 投稿者により修正されました。】 2010/03/01(Mon) 17:23:03 [ No.75 ]
読ませて頂きました。ありがとうございます。
後ほど連絡致します。 2010/03/02(Tue) 10:49:06 [ No.76 ]
> 読ませて頂きました。ありがとうございます。
> 後ほど連絡致します。 お手紙拝読いたしました。本来ならば私信でお返事を出すべきところですが、リハビリ中で旨く字が書けませんので、とりあえずこの場を借りてお答えできる範囲で書かせていただきます。 1.33年卒の東大入学者は御指摘のとおり4名(1浪1、2浪3)です。7名と言うのは多分35年3月入試での合格者の総数(内33年卒3名)です。HPの数字は修正しました。 2.エッセイのご依頼については、まったく問題ないと存じますが、お急ぎでなければ私のほうで一応趣旨を伝えて了解を取ってからお返事させていただいても結構です。 以下は、まったく個人的な提案で無視していただいても構いません。 ・30年卒は学業の黄金時代 ・31年卒は野球の黄金時代 ・33年卒は1つの時代の終わりを告げる時代(日本中の公立高校の凋落の始まり) だと思いますのでそれぞれの同級生にとってのスターにエッセイでも談話でも寄せていただいてはと思います。 因みに、一昨年まで勤務していた東京情報大学の柴田事務局長は現在学校法人東京農業大学全体の事務局長に栄転されましたが、ある会議の合間に私が野球の名門桐生高校の出身であると言ったところ、『あぁ、今泉・田辺ですね・・・』と返してきました。こういう方々の体験談は、同窓生にとって千金の価値があると思います。 3.桐生の“名家”の子女が中央に流出する傾向は江戸時代からのものだそうです。娘は江戸の大商人や武家に行儀見習いにいきましたし、息子たちは、商家の番頭として修行を積んだり、養子で出たりしていたそうです。野間家や岩澤家、森家(5男が羽丹家の養子に)など、皆そうです。これは何家がどうということではなく桐生の文化レベルの問題でしょう。 因みに私の母や妻の郷里、館林などはそれどころではありません。正田家の子弟はもとより、女性宇宙飛行士で有名になった向井千秋さんなどもその例にもれません。 私の同級生でも西小の総代を含む2名が東京の中学へ、西中から東京の高校へ2名、前高へ1名進学しました。内2名は東大、1名は東工大、2名は慶大に入っています。 かくいう私にも、錦糸町に住む叔父から両国高校への誘いがありましたが、きっぱり断りました。桐生で育った以上、桐生高校⇒群大工学部 しか頭にありませんでした。それが東大を受けることになったのは、当時の町をあげての前橋・高崎への対抗意識に背を向けることに、言わば敵前逃亡するような後ろめたさを感じたからです。しいて言えば愛郷心です。それは今も変わりません。それは私のHPに乗せた論文『競争的広域行政機構による郷土の再興』を読んでいただければ嘘でないことがお分かりになると思います。 4.30年度、1年生のときのマラソンについて 全校マラソンで完走し、ゴールのところで林檎を丸かじりしたときの味と2階の教室に戻るときの足の痛さを記憶しています。 コースの正確な記憶はありませんが、10キロコースだったことは確かです。赤岩橋を渡って広沢へ抜け、そのあと金桜橋から戻って来たのかどうか・・・まさか昭和橋じゃないだろう。 3年生の中には、途中トラックに便乗してズルする者もいました。 4位に入った佐藤勇五郎君は同じクラス(C組)の野球部員でした。彼のほかにも野球部員が2人いたと思いますが雪合戦などで彼らが投げる雪礫の恐ろしさは今でも覚えています。しかし、それほどの彼らもついに正選手にはなれませんでした。当時の桐高野球部のレベルが如何に高かったかの証左でしょう。 5.修学旅行について 往復とも夜行だったことは確かですが、卒業アルバムの中の集合写真や友人とのスナップなどには日付も氏名もメモもまったくありません。 帰桐後、その晩のうちに800字詰め原稿用紙30枚くらいの修学旅行記を書き上げたのですが、桐生の家を引き払う時のどさくさで中・高時代の書類がすべてどこかに消えてしまいました。 HPに記した大島君や末広町の小林宏至君(桐生商店連盟協同組合. 副理事長)など、桐生で家業を継いでいる人のほうが、期待できそうです。 小林宏至君とも一昨年の11月1日の西中同窓会で会っているはずなのですが、HPに書いたように直後の虚血性脳梗塞のせいでまったく記憶がありません。しかし、彼の家で一緒に仮装行列の案を練った仲ですから気軽に相談してください。 ついでに言うと、"Moorish maiden of sweet seventeen"の案も彼の家にあった百科全書の中で見つけた写真が出所でした。 【2010/03/07(Sun) 15:27:15 投稿者により修正されました。】 2010/03/07(Sun) 15:11:50 [ No.79 ]
読ませて頂きました。ありがとうございます。
また後日連絡いたします。 2010/03/08(Mon) 12:20:16 [ No.80 ] |