桐生高校同窓会
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平成25年度定期総会



 吹奏楽委員会による演奏


吹奏楽委員会による演奏


応援指導委員会による校歌・応援歌のリード


合唱団「山紫」の合唱


賀詞贈呈

 本年度の定期総会は、平成25年7月6日(土)に桐生市市民文化会館で開催され、約140名が出席しました。本年度の運営は、下山雅通氏を幹事長とする昭和54年卒業生が幹事学年として担当しました。
 大森美明氏の総合司会で、まずはアトラクションとしてOB合唱団「山紫」の変わらぬ美声が会場に響きました。オリジナル曲も披露され、聴き応えがありました。
 また、吹奏楽委員会による演奏が行われました。同窓会の資金援助によって購入されたハープの音色に会場はうっとりしました。さらに応援指導委員会による校歌・応援歌のリードによってOBたちは在校時の興奮を呼び覚まされて、大声での斉唱となりました。
 異常な猛暑に対する同窓生諸氏を気遣う趣旨の「開会のことば」が阿部高久副会長によって発せられました。
 そして、物故会員への黙祷、宮地由高同窓会長と中澤治新校長の挨拶の順で行われました。
 宮地会長「同窓会は母校の応援団です。母校が群馬の中でも輝いている学校であり続けるように支援していくためにも、維持会費の納入にご協力ください。高齢化率が最も増加している桐生において、少子高齢化に伴う桐生地区全体の高校の在り方を考えていく必要があります。桐高一校の問題ではありません。いろいろご意見をお寄せください。」
 中澤校長「4月から第38代校長として赴任した中澤治です。創立96年を数える本校が100周年に向けてより発展するよう尽力したいと存じます。今春の卒業生は、国公立大学に114名合格という過去最高の成果を収めました。また、部活動でも、陸上部・卓球部・少林寺拳法部が全国大会への出場を決めております。同窓の方々が更に誇りを持てますように、桐高のブランド力をアップさせていく所存です。」
 続いて、喜寿をめでたく迎えた先輩諸氏44名に賀詞と記念品が贈呈され、代表者として新見祐三先輩から「二度目の卒業証書をいただいたような気分です。青春の一番大切な時期を桐生高校で過ごさせてもらい、感謝しています。先生方のニックネームは今もすべて覚えています。わが30会は結束が強く、今も毎月集まっています。」とご挨拶をいただきました。
 その後、飯島英規君の議長で議事が進行し、昨年度の事業報告・会計報告・会計監査報告、会則の改正、役員の改選、本年度の事業計画案・予算案の順で審議されました。会則の改正は、第3章第5条3項「理事15名以内」を「理事25名以内」に改める改正案です。来る100周年事業に向けて、若手の理事を増員して体制を強化するという趣旨であり、すべての案件が承認されました。
 閉会のことばでは、川島康雄副会長が「野球に大変ご理解のある中澤新校長の下で母校の甲子園出場を期待したい」と結びました。




阿部 高久 副会長


川島 康雄 副会長



事務局と会計・監査


総合司会 大森 美明 氏

宮地 由高 会長


辻 正男 副会長


中澤 治 校長


校長と会長・副会長


議長 飯島 英規 氏
           
定期総会懇親会

 会場をスカイホールに移して、約400名に達する出席者を得て、幹事学年の柴田敦氏による楽しい司会運びによって、懇親会が華やかに繰り広げられました。
 辻副会長の開会の言葉に始まり、宮地会長と中澤校長のご挨拶のあと、来賓として亀山豊文桐生市長、石原条みどり市長がステージに立ち、
 亀山市長「桐高の元気は桐生の元気に繋がります。」
 石原市長「喜寿を迎えられた先輩方へのお祝いと、同窓会総会・懇親会の設営に当たられた54卒生に感謝を申し上げます。」
 と挨拶されました。そして乾杯は、総会で喜寿のお祝いを受けた方々を代表して金井吉雄先輩のご発声によって声高々に行われました。
そして歓談。
 合唱団「山紫」の歌声が、総会前のアトラクションに引き続いて披露されました。
また、ロビーでは53年春の甲子園ダイジェストビデオが上映されました。
そして、宴たけなわでしたが、本年度幹事学年(54年卒)と次年度幹事学年(55年卒)の引き継ぎがステージで行われました。54卒生は数多く参加していて、ステージ両翼からはみ出すほどでした。幹事長の下山雅通氏による感謝の弁と、次期学年幹事長の伊東利夫氏の決意表明のあと、54卒の応援団長新井一男氏のリードによる校歌が、会場割れんばかりの歌声で歌われました。「応援団員すべて集合」の声が掛かり、歴代応援団員がすべてステージ両翼に出てリードする様子は壮観でした。
 締めの発声は54年度幹事学年でもある高張浩一教頭が行い、大変に盛り上がった懇親会も閉幕となりました。


懇親会風景


懇親会風景


宮地 由高 会長


中澤 治 校長

亀山 豊文 桐生市長


懇親会司会進行 柴田 敦 氏


次回幹事学年(昭和55年卒)のあいさつ

石原 条 みどり市長


本年度幹事学年 幹事長 下山 雅通 氏


校歌による懇親会の〆



平成26年度定期総会講演会






講演中の小山 浩之 氏




講演中の藪塚 謙一 氏

講演者への花束贈呈

  今年は幹事学年である昭和54年卒業生から二人が講師に立ちました。1部は声楽家の小山裕之氏で、演題は『空氣を読む?いいえ、場の空気は作り出すもの』でした。
 2部は朝日新聞社部長の藪塚謙一氏で、演題は『伝えるということ~書け!抜け!寝るな!で始まって』でした。


【小山裕之氏『空氣を読む?いいえ、場の空気は作り出すもの』要旨】
 (ヘンリー・パーセルの歌曲「夕べの祈り」の見事な朗唱の後で)普段は人の声を調整する仕事もしており、女性相手にはその音程で歌っているので披露しました。
 今日は発する「気」が他の人の「気」と関わっていくということについてお話しします。 気を発するのに大切な部分は下腹部です。江戸時代の観相師水野南北もへその重要性を「へその締まり良き者はその身体強し」「へそ上向く者は才あるべし」と言っています。 しかし、現代生活はここを弱めてしまうのです。老化は下腹部から始まります。逆に、下腹部を活性化すると老化は止まります。足腰が弱まると嚥下力が落ちると言われますが、下腹部をうまく動かすと飲み込みがよくなるのです。
声で相手の調子がわかります。また、声は周囲の雰囲気を変えることができます。肩が凝っている人もしなやかな声に感応してリラックスしてきます。相手を落ち着かせたかったらだんだんゆっくりと話せばいいし、緊張させたければ下腹部を上げ気味に喋ればいいのです(桐高校歌の歌詞朗読で実演)。
声は、ビル2棟のすき間20センチの向こう側にいる知人に呼びかけるというイメージで声の横幅を狭くするとクリアになりますし、声の横幅を広げるとゆったりと響きます。また、声はまっすぐ一本調子に伸ばすとつらい。筋肉は固めると持続しにくいのです。きめ細かく震わせたほうが強い音が出ます(応援指導委員会リーダーと実演)。
 最後に「桐高校歌」を歌って講演を終わりたいと思います(抑揚のある表情豊かな校歌の朗唱に会場は感動)。
【藪塚謙一氏『伝えるということ~書け!抜け!寝るな!で始まって』要旨】
 演題は新米記者の時に木村社会部長から教わった言葉です。「抜け」とは特ダネを抜けということです。入社してしばらくの間は事件担当をして、家にいるのが3時間半という生活を続けていたので、この言葉の意味がよくわかりました。
 (ケネディの生々しい暗殺場面「ケネディ・ショット」をプロジェクターで観たあとで)この時に報道関係者が3人居合わせましたが、UPIの特ダネとして10分後には世界に配信されました。そしてメリマン・スミスという記者はピューリツア賞を受賞しました。なぜ、独占報道できたのか。それは彼がただ1台あった無線電話を抱え込み、ダッシュボードの下に潜り込んで、叩かれようが蹴られようがUPI本社に連絡し続けたからです。
 しかし、今や情報化時代。発信形態そのものが大きく変わりました。それでも、伝わらない情報というものが今もあります。一つは隠蔽、もう一つは本人がその価値に気づいていない、という場合です。
 情報が伝わらない怖さの実例があります。アメリカにはローカルな新聞社が数多くありますが、リーマンショックによって広告収入が途絶え、約200社が倒産しました。そうなると、取材空白地帯ができてしまい、カリフォルニア州のベルという小都市では、市の幹部たちの給与が不当に引き上げられたのに気づかれなかったという事態が起きました。
 東日本大震災では、情報を伝えられない状況の中で、秋田県出身の松川という若手記者の奮闘がありました。彼は東北出身だからと志願して、ヘリで福島空港に飛び、午後8時半にいわき市に到着。福島総局から全く連絡の取れなくなった女川町がどのような現状なのかを取材しようと、翌午前5時に石巻を経て、9時には女川に到着しました。そこで、惨状を目の当たりにし、地元の人たちの声をじかに聞いて、これは全国に伝えなければならないと強く思いましたが、伝えようにも情報の送信ポイントが見つからない。夜間は氷点下6度7度という中を、彼は徒歩3万5千歩、自転車で5時間近くさまよってようやく送信できました。記事になって届けられたのは大地震発生から38時間後でした。
 では、なぜ伝えるのでしょうか。JR尼崎脱線事故では、組織は最後は組織自体を守ろうとしてしまうので、伝わるものも伝わらなくなる、という思いから報道しましたし、関心を薄れさせないで真相を追求したいということから亡くなった一人一人を記事にしました。伝えるとは伝えることの決意です。伝えるとは社会をつなげる行為です。
 では、何を伝えるのか。報道の自由という言葉がありますが、何を報じてもいいわけではありません。公共性と個人の権利侵害の兼ね合いや、公共性と単なる好奇心の境目を見定めなければなりません。
 また、情報は簡単に取れるものではありません。情報確度も問題です。しかし、根本には好奇心が必要だと思います。簡単に聞き捨てたり見逃したりしない好奇心です。私は、学力こそありませんでしたが、好奇心は人並み以上にあったと思います。

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